「鈴木藤助日記」を読もう

   鈴木藤助日記を読む会に参加しませんか?

2018年3月の鈴木藤助日記を読む会

3月19日(月)、鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

気象庁は17日、東京都心で桜が開花したと発表しました。平年より9日、昨年より4日早いそうです。読む会の会場である「ちどり」の前の桜もほころび始め、春が来たことを告げています。

「鈴木藤助日記」は、明治6年11月5日より11月12日までの記事を読みました。
11月5日、藤助家の者が平間村に無尽講へ行っています。「せりくじ」という方法のため、くじを引かなかったと記しています。
11月9日、藤助の娘のおことが、久保沢村へ縁付くことになり、親族を呼んで「立振る舞い」が開かれました。昔は婚礼に送り出す前に、縁者を呼んで一席設けることがあったとのこと。
この時期、馬を買い入れるための算段をしています。関係者が言い争いになり、藤助が仲直りの仲介をしています。醤油製造を家業とする藤助家では、馬は大切な輸送手段でした。
11月6日稲こきをし、10日麦まきをしています。農業でも大切な時期であることが窺えます。

◆ 次回  4月2日(月)10時より
◆ 次々回 5月14日(月)10時より

 

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   「ちどり」前の桜です

 

 

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講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」の報告

2月11日(日)横浜市歴史博物館において、講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」という講演会がありました。講演者は小林紀子学芸員です。地元の資料として『鈴木藤助日記』を活用されているので、ここにご報告させていただきます。

 

講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」
はじめに -戦闘のなかった地域 
戊辰戦争期、横浜市域では戦闘は起こっておらず、新旧権力交代は平和的に行われたと従来の研究で指摘されている。しかし、横浜市域や周辺の村々では、新政府軍及び旧幕府軍勢力と関わる時期(慶応4年3月~5月頃)に、どのようなことが起こっていたかを、古文書など地元の資料から具体的にみていきたい。


新政府軍の進軍と村々
東海道が走る横浜地域は、慶応4年3月上旬から4月下旬にかけ、新政府軍が通行した。進軍は基本的に従来の継立システムを踏襲し、加えて恭順した沿道諸藩や代官などを「御賄御用掛」に任じ、人馬継立の差配に当たらせた。近隣の有力名主などを「御賄方下役」として村々と直接やりとりした。
村高100石につき金3両の「御賄御用途金」、3俵の白米を差出すよう要求するなど、人馬を出すことも含め、その負担は遠方の村々にも課せられた。
また、新政府軍の宿泊・休憩所の提供、夜具蒲団・草鞋の提出、多摩川船場に見張所を設ける際の人足や経費を担った。


村々への影響
慶応2年の武州世直しをきっかけに、綱島村寄場組合・川崎宿寄場組合に各農兵隊が結成され、農兵隊に属さない村にも鉄砲所持が広く普及していた。新政府軍により鉄砲の取調と回収がなされ、これにより農兵隊は実質武装解除となる。(「鈴木藤助日記」引用)
慶応4年閏4月下旬より5月前半、彰義隊をはじめとする旧幕府諸隊が軍資金等を要求するという事態が長尾村辺りでは起こっていた。(「鈴木藤助日記」に詳しい)


むすびにかえて
新政府軍の進軍は、沿道およびその周辺村々の人馬と資金、物資なくしては成り立たなかった。旧幕府勢力にとっても当該地域は、財源・補給源として重要であった。
一方賦課される側の村々では、大規模な抵抗は見られない。けれども、新政府軍への風刺文などが流行ったこともあった。(「鈴木藤助日記」引用)
新政府軍とともにもたらされた非日常の中で、複雑に移り変わる緒状況にその都度対応しつつ、日々の生活を継続させていこうとする姿勢が垣間見える。

 

以上、講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」のレジュメを失礼ながら要約させていただきました。

吉川弘文館戊辰戦争の新視点 下』(2018年2月21日出版)には、「東海道軍と沿道の人々-横浜とその周辺地域を中心に」として、横浜市歴史博物館小林紀子学芸員が執筆しておられますのでご紹介いたします。

 

www.yoshikawa-k.co.jp

2018年2月の鈴木藤助日記を読む会

2月19日(月)、鈴木藤助日記を読む会がありました。

井上攻先生から書籍のご紹介がありました。

戊辰戦争の新視点 上』に続き『戊辰戦争の新視点 下』が発行されます。
戊辰戦争の新視点 下』には、横浜市歴史博物館小林紀子学芸員が執筆しておられますのでご紹介いたします。

戊辰戦争の新視点 下 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

「鈴木藤助日記」は、明治6年10月30日より11月4日までの記事を読みました。
11月1日、藤助の孫娘あいが麻疹にかかったとのことで、山口左仲医師が往診に来ています。山口左仲とは五反田村で開業しているお医者さんで、親子3代に渡り医療に従事しているようです。(『川崎市史通史編3近代』参照)
この時期「学校検査」のため役人が長尾村に来るとのことで、勘左衛門や藤助たちは対応に追われています。藤助家の敷地内に化育学舎の仮校舎が炭小屋を改装して作られているため、大工や左官の出入りがあります。
11月2日、平村の出羽様=白幡八幡大神が火事で焼失したと記されています。次の日、藤助家と向店と古着店の3軒で家事見舞いとして金1両を出しています。
火事の話から発展、江戸時代に過失から出火をなした者が寺院に逃げ込むことを「火元入寺」と言うそうです。権力のある寺院で謹慎することにより、その罪を軽減又は許されることがあったとのこと。縁切寺として有名な鎌倉東慶寺や上州満徳寺のように、有力寺院は揉め事を解決する仲裁機能を持ち、人々の和を保つ役割を果たしていたのです。

◆ 次回  3月19日(月)10時より
◆ 次々回 4月2日(月)10時より

 

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      荏田真福寺

 

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2018年1月の鈴木藤助日記を読む会

1月22日、鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

井上攻先生は、都筑区史編纂に関しての講義で、お江の化粧料であった村々の話題を考えているそうです。
横浜・川崎市域の旧村名、川和村、石川村、箕輪村、王禅寺村などは、二代将軍秀忠の正室お江の化粧料であり、その後増上寺の御霊屋料となりました。各村には崇源院(お江)逝去の際、棺を担いだとする由緒があります。川和村の古記録によると、家康、秀忠、お江の命日を休日にしたとあるそうです。将軍家との縁が深く、村の人たちもそれを誇りに思っていたとのこと。増上寺との関係により一般の諸役を免除されるという特色を持っていました。

「鈴木藤助日記」は、明治6年10月22日より10月29日までの記事を読みました。
23日、井田文三が副戸長になり東泉寺へ出張したとあります。井田文三とは、長尾村名主勘左衛門の息子で、自由民権運動で活躍した人物です。村の有力者の世代交代を感じさせます。
24日、向の武兵衛宅にて祝儀があり、銭300文と半紙2状を持っていきます。お祝いとしての相場だったのでしょうか。現在の祝儀事情にも話が及びました。
通常の文字より少し大きな文字で、天草を煮だしトコロテンを作るレシピが記されています。
また、船に対する税金の記述があります。当時鈴木藤助家では、川舟3艘を持っており、その税金が6貫750文だったことがわかります。

◆ 次回  2月19日(月)10時より
◆ 次々回 3月19日(月)10時より

 

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    荏田村下宿の庚申塔

 

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2017年12月の鈴木藤助日記を読む会

12月19日、鈴木藤助日記を読む会がありました。

横浜市歴史博物館では都筑区の歴史編纂を進めているそうです。地域の長老に江戸時代の村絵図を見てもらうと、1970年以前の長老の記憶の中にある地域の地図と一致するとのこと。例えば江戸時代の村絵図の「しこい」(肥溜め)の位置は、長老の記憶にある肥溜めの位置とほぼ同じ。つまり1970年以前の地域の変化は少なく、逆に1970年代以降の変化は激しいことが改めて確認できるようです。
さらに話題は、文化財行政へと及びました。文化財保護法の改定により、2020年までに文化財を観光資源として活用することが推進されようとしています。文化財の保護よりも活用重視の政策に問題はないか、長期的な視野に立った文化財行政となっているか、変化するであろう行政のあり方が問われています。

「鈴木藤助日記」は、明治6年10月16日より10月21日までの記事を読みました。
17日に榎木戸の芝居へ出かけた藤助家の使用人たちが帰らず、次の日に帰宅したと記されています。朝まで芝居興行があったのでしょうか。どんな芝居だったのか気になるところです。
20日「化育舎井戸」との記述があります。化育舎(化育学舎)とは明治6年成立したこの地域の小学校です。小学校の設備を整えるための井戸掘りをしていることが分かります。
21日には「箒売りの浪人」が騒いだので溝ノ口の廻り者へ届けた記事があります。失業した侍が押売りをしていたのでしょうか。幕末よりも明治初期の治安は悪かったとのこと。時代の変わり目には治安が悪化するという興味深い事例です。

◆ 次回  1月22日(月)10時より
◆ 次々回 2月19日(月)10時より

 

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津久井道沿いの「榎木戸」と呼ばれた地域

現在の多摩警察署裏辺り

 

 

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2017年11月の鈴木藤助日記を読む会

11月7日、鈴木藤助日記を読む会がありました。


先日のシンポジウムの話から、明治維新の評価の話題に及びました。
明治維新100年の頃、明治維新の変革の主体は誰だったか。維新の英雄か、又は民衆こそ主体だったのかの議論を戦わす時代がありました。
明治維新150年の今、明治維新は変革だったのか。
「パクス・トクガワーナ」の基礎の上に築かれた明治維新であるなら、260年戦争のなかった徳川政権を再評価してもよいのではないかという歴史学の流れがあるそうです。英雄ではない庶民の記録、庶民の営みの積み重ねの中にその答えを探す研究が、日記史料の研究といえるでしょう。

 

明治6年10月14日より10月16日までの日記を読みました。


この時期、隣村である平村に住む職人が来てカゴ作りが行われています。3人で4日間も作業しています。どんなカゴができたのでしょう。
16日の日記をみると、榎木戸の芝居へ女たちが出かけ、夜遅く帰ってきた様です。榎木戸とは登戸から生田へ向かう途中にある地名で、枡形城の入口=木戸に榎があったことから付けられた地名だそうです。昔は賑やかな場所だったとのこと。芝居小屋が立つほどの所だったのですね。


◆ 次回  12月19日(火)10時より
◆ 次々回 1月22日(月)10時より

 

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  登戸宿・北向地蔵と馬頭観音 

 

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2017年10月の鈴木藤助日記を読む会

10月24日、鈴木藤助日記を読む会がありました。
明治6年10月7日より10月13日までの日記を読みました。

この時期、等覚院の屋根の茅葺きをしていて、茅を運んだり屋根屋が来たりしていますが、漸く終了したようです。
茅葺き作業は共同体の仕事で、村の人たちが協力して行う作業ですが、専門職の人もいたようで、日記には「やね辰・万」という名が出てきます。
今では珍しくなってしまった茅葺き屋根や茅葺き作業ですが、5~60年前には普通に存在していました。
茅のみを葺くこともありますが、茅の間に杉皮を入れる方法もあり、それを「混ぜ葺き」と呼んだとのこと。

10月10~11日の日記には、溝ノ口の邏卒が登場します。
明治初期の警察官のことで、「らそつ」と読みます。
新しい時代の社会状況を示す記述です。


◆ 次回  11月7日(火)10時より

◆ 次々回 12月19日(火)10時より

 

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    等覚院山門の仁王像

 

 

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