「鈴木藤助日記」を読もう

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2017年5月の鈴木藤助日記を読む会

鈴木藤助日記を読む会が5月15日溝ノ口のちどりでありました。私は会を休んだため、Sさんが報告してくれた内容を掲載させていただきます。

日記は、明治6年9月6日から16日まで読みました。

9月6日

念仏講で護摩を焚いたようだが、どういう趣旨なのだろうか。山田村(幕末~明治)の日記では、頻繁に護摩を焚いている。農業上の「除災祈願」、農業を脅かす災難を払うために行なう。年中行事化しているものもあれば(虫送りなど)、困った時臨時に行なうもの(雨乞いなど)もある。年中行事化したものはお祭りの要素が強く、儀式の後のどんちゃん騒ぎのほうが主目的になっていたりもする。

藤助の日記に「除災祈願」的な護摩焚きの記述が少ないのは、長尾村ではあまり行なわれなかったせいなのか、それとも農業者リーダーとしては藤助の立場が強くないせいなのか。

 9月7日

下女が子供を産んだらしい。書き付けとは、その届けを名主へ届けたのか。

 9月8日

掛け取りは、藤助が質屋と事業用資金貸し付けを手広くやっている関係。

麦つきを3臼しているということは水車を使ったのではなく、家に臼があって、それでついているらしい。しかし、ひとりで3臼もつくとは、よほどタフなのか?それとも何か省力できる方法があったのか?そもそも何のために麦をつくのか、醤油造りのための脱穀か?

見舞いとは、病気見舞いか、季節の挨拶か。おそらく重陽節句で、久弥と大谷も同じ目的で訪ねたと思われる。

 9月9日

おことに縁談が持ち上がっている。以前、小山田村へ嫁いだが死別して実家へ戻ってきた。この頃は30歳くらい。

赤飯が届いたのは、重陽節句と思われる。このような贈答品のやりとりには、どのような法則があるのか?今回は誰が誰に贈る番、などといった持ち回りや交代制があるのか?

 9月10

曽之吉というのは、あまり聞いたことのない名前。貸し付けの商売の関係者と思われる。広尾は、現在の港区広尾なのか?おきくとは?

 9月11

泊まっていた客たちが帰っていく。重陽節句で訪問してきたのか。

 9月12

「はま」は横浜の意味。いつから横浜をハマと呼ぶようになったのか、それほど古くはないはず。

 9月13

前にも出てきたが、下ケは地名の下綱。

 9月14

平おたみは、平村のおたみ。わざわざこのように表現するのだから、藤助は長尾村住人であって平村の住人ではない。(※「藤助家は平村にあったのに、長尾村のコミュニティに所属していた」と主張する参加者がいるので)

祭礼を、本来神社でやるはずが雨天のため等覚院でやることになった。どういうことなのか不明。稲刈りをすませていないのに村祭りをするのも、少々わかりにくい。旧暦の名残でこの時期に催すことになったのか?

 9月15

かこ善とは、「水夫の善吉」みたいな人名の略称と思われる。樽集め(空き樽の回収)をしているが、なぜ水夫がするのか。たまたま暇だったから、藤助に頼まれたのだろうか。(※かこ善とは「駕籠屋の善吉」の意味です)

おりよが亡くなり、有馬村へ知らせに行っている。村の住人が残らず来たというのは、おそらく祭礼でなく、おりよの弔いのため。

鉢はらいとは、直会の意味と思われるが、一般的には「鉢洗い」というのでは。

諸勘定は、祭礼の会計と思われる。

 9月16

おりよの葬式が行なわれる。前日は通夜だったのだろう。香典として、現金と米を出している。この時代は貨幣経済が浸透しているのに、米を出すのは何か意味があるのか?葬式を手伝ってくれた人たちに御礼として配るため、という意見あり。

おけいが川崎大師へ参詣するついでにこちらへ立ち寄った。川崎大師は、それほど遠くないので、女性に大変人気の参詣先だった。 

 

◆次回  6月12日(月)10時より

◆次々回 7月10日(月)10時より 

 

 

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  柴又の山本亭庭園

 

 

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