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講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」の報告

2月11日(日)横浜市歴史博物館において、講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」という講演会がありました。講演者は小林紀子学芸員です。地元の資料として『鈴木藤助日記』を活用されているので、ここにご報告させていただきます。

 

講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」
はじめに -戦闘のなかった地域 
戊辰戦争期、横浜市域では戦闘は起こっておらず、新旧権力交代は平和的に行われたと従来の研究で指摘されている。しかし、横浜市域や周辺の村々では、新政府軍及び旧幕府軍勢力と関わる時期(慶応4年3月~5月頃)に、どのようなことが起こっていたかを、古文書など地元の資料から具体的にみていきたい。


新政府軍の進軍と村々
東海道が走る横浜地域は、慶応4年3月上旬から4月下旬にかけ、新政府軍が通行した。進軍は基本的に従来の継立システムを踏襲し、加えて恭順した沿道諸藩や代官などを「御賄御用掛」に任じ、人馬継立の差配に当たらせた。近隣の有力名主などを「御賄方下役」として村々と直接やりとりした。
村高100石につき金3両の「御賄御用途金」、3俵の白米を差出すよう要求するなど、人馬を出すことも含め、その負担は遠方の村々にも課せられた。
また、新政府軍の宿泊・休憩所の提供、夜具蒲団・草鞋の提出、多摩川船場に見張所を設ける際の人足や経費を担った。


村々への影響
慶応2年の武州世直しをきっかけに、綱島村寄場組合・川崎宿寄場組合に各農兵隊が結成され、農兵隊に属さない村にも鉄砲所持が広く普及していた。新政府軍により鉄砲の取調と回収がなされ、これにより農兵隊は実質武装解除となる。(「鈴木藤助日記」引用)
慶応4年閏4月下旬より5月前半、彰義隊をはじめとする旧幕府諸隊が軍資金等を要求するという事態が長尾村辺りでは起こっていた。(「鈴木藤助日記」に詳しい)


むすびにかえて
新政府軍の進軍は、沿道およびその周辺村々の人馬と資金、物資なくしては成り立たなかった。旧幕府勢力にとっても当該地域は、財源・補給源として重要であった。
一方賦課される側の村々では、大規模な抵抗は見られない。けれども、新政府軍への風刺文などが流行ったこともあった。(「鈴木藤助日記」引用)
新政府軍とともにもたらされた非日常の中で、複雑に移り変わる緒状況にその都度対応しつつ、日々の生活を継続させていこうとする姿勢が垣間見える。

 

以上、講座横浜の歴史「戊辰戦争と横浜の村々」のレジュメを失礼ながら要約させていただきました。

吉川弘文館戊辰戦争の新視点 下』(2018年2月21日出版)には、「東海道軍と沿道の人々-横浜とその周辺地域を中心に」として、横浜市歴史博物館小林紀子学芸員が執筆しておられますのでご紹介いたします。

 

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