「鈴木藤助日記」を読もう

   鈴木藤助日記を読む会に参加しませんか?

2018年5月の鈴木藤助日記を読む会

5月14日(月)、鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

江戸時代は、士農工商と身分が分かれ、農民が商業に携わることは原則禁止されていました。しかし実際は、農民の中にも農業の合間に商売をする者がいましたし、農業に基盤を置きながらも手広く商業活動を行う豪農もいました。
「鈴木藤助日記」の中に登場する鈴木久弥家は、その豪農といえる家で、かなり大規模な商業活動をしていました。川崎市市民ミュージアムに残された史料をみると、その経営内容が分かります。鈴木久弥家の商売は、穀物・炭・米・紅花・塩・材木・〆粕・油など多彩です。また、大名屋敷の下掃除や金融(質屋・貸付)も手広く行っており、江戸に出店を出し、複数の大名家と関わっていました。
同じ長尾村で親戚である鈴木藤助家は、商売の詳しい記録が残されていませんが、鈴木久弥家より規模は小さいけれども似たような経営をしていたと推察されます。「鈴木藤助日記」にも久弥家と藤助家とが、商売の情報交換している記述をみることがあります。

 

「鈴木藤助日記」は、明治6年11月20日より11月28日までの記事を読みました。
11月21日、宿河原へ3人の者が「からうす」を引きに行くとあります。「からうす」とは「唐臼」と書き、うすを地面に埋め、足で杵を踏んで穀物をつく仕掛けのものとのこと。ひき臼とは違うことが判明。「唐〇〇」とは日本人にとって外国から伝わったものを意味します。唐臼もいつの頃か外国から伝来し、元々あったひき臼と区別するために名付けられたのかもしれません。
この時期、馬無尽とか馬の話題がよく出てきます。1軒の農家で1頭の馬を飼うことが難しかった時期、皆で少しずつ負担し合い馬を貸し借りしたのが馬無尽ではないかとのこと。馬は、田畑の耕作や荷物の運搬、また馬糞を肥料にするなど、身近な動物だったのでしょう。さらに、関東では身近に用いない牛を、関西では多く用いる印象があります。その文化の違いは何に由来するのか想像が膨らみました。

◆ 次回  6月11日(月)10時より
◆ 次々回 7月9日(月)10時より

 

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     等覚院のつつじ