「鈴木藤助日記」を読もう

   鈴木藤助日記を読む会に参加しませんか?

歴史×妖×芳年 月岡芳年の企画展

横浜市歴史博物館にて「歴史れきし×妖あやかし×芳年よしとし月岡芳年の浮世絵展が、7月29日より始まります。

神奈川県立歴史博物館所蔵「丹波コレクション」の作品とその魅力を紹介する第二弾!

芳年は幕末から明治にかけて活躍した絵師で〝最後の浮世絵師〟とも称されています。芳年はさまざまなジャンルの作品を手がけましたが、本展では、歴史的なできごとや伝説を題材とした作品と、芳年晩年の名作「新形三十六怪撰」全作品を紹介します。

 

企画展展示期間 7月29日(土)~8月27日(日)

企画展観覧料 一般500円 大学・高校生200円                中・小学生100円

 

横浜市歴史博物館 休館日:月曜日

         開館時間:9:00~17:00

 

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7月の鈴木藤助日記を読む会

鈴木藤助日記を読む会が7月10日に開かれました。

明治6年9月26日より10月3日までの日記を読みました。

 

9月26日、学校の先生である松月堂と、隠居と呼ばれる人がケンカをして、伊兵衛が「あつかい」をする。「あつかい」とは訴訟や争い事の仲立ちをするという意味。

昔は地域から信頼される人が、「あつかい」役を頼まれることがあった。まさに頼もしい人ということである。

 

この時期、等覚院では大工が出入りしている。

藤助家の使用人が下川原の鈴木家へ等覚院の瓦代金を借用に行く記述がある。等覚院の屋根普請をしているようだ。

 

10月1日、学区取締の小杉村の安藤彦太郎(のちの久重)と長尾村下川原の鈴木久弥が、学校見廻りに来ている。

2日、藤助家の炭小屋に床をはり、学校にすることになった。

学制により小学校を設立することが急務であったが、ただちに小学校を新設することは不可能であったため、当面は寺子屋・私塾を小学校へ改編することとなった。

長尾村では、江戸時代からの松月堂(杉浦先生)という寺子屋が、化育学舎という小学校に改編されていくことになるが、藤助家の敷地内に小学校の仮校舎ができるのである。

その過程が日記より垣間見えるのは興味深い。

 

 

  8月はお休み

 

  次回は9月4日(月)10時より

 

 

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  等覚院の手水槽を支えている〇〇〇

 

 

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長尾の散策

6月の鈴木藤助日記を読む会の後、鈴木藤助氏が暮らした土地を実際に歩いてみようと計画をたてた。現在の川崎市多摩区と宮前区にまたがる旧長尾村の地域である。妙楽寺→等覚院→旧鈴木藤助家辺りを散策した。

                         

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           『宮前区歴史ガイド』の地図より

 

 

JR登戸駅よりコミュニティーバス「あじさい号」に乗ること10分、妙楽寺へ向かう。

妙楽寺のある長尾台地区は、多摩川を見下ろし東京方面を見渡せる景色のよい所だが、二ケ領用水の流れる地区からは、急な坂を登らなければならない。

コミュニティーバス「あじさい号」はとても有難いバスである。但しスイカ、パスモの類は使えないとのこと。

http://www.city.kawasaki.jp/500/page/0000063124.html

      

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妙楽寺に到着。あじさい寺として有名で、訪れたのはまさにあじさいの花が咲き始めた季節。妙楽寺天台宗の寺院である。

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                       妙楽寺の水琴窟

                        

境内の薬師堂には木造薬師三尊像が安置されている。薬師像胎内の墨書から「永正6年(1509)年」の製作であることが判明した。また脇侍の日光菩薩の胎内には「長尾山威光寺」「天文141545)年」墨書銘が発見された。

このことにより、妙楽寺鎌倉時代に威光寺あるいは長尾寺と呼ばれた寺の旧跡であると考えられている。『吾妻鑑』の治承4(1180)年の条には、源氏の代々の祈禱所として寺名がみえ、また武蔵国長尾寺が頼朝の弟である阿野全成に与えられたと記録されている。

 

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   『吾妻鑑』治承4年(1180)11月19日条          

 

本堂左手の丘に大師穴(だいしあな)と呼ばれる洞窟があり、『江戸名所図会』にも紹介されている。しかし、今は公開されていない。

 

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   『江戸名所図会』橘樹郡・大師穴の記述

      

この妙楽寺は鈴木藤助家の菩提寺である。この寺の地域を日記では「台」という地名で呼ぶ。

 

今回は立ち寄らなかったが、妙楽寺より等覚院へ向かう途中、右手に長尾神社がある。昔は五所権現といわれた。

17日、一年の無病息災と豊作を祈願する的祭(マトー)が行われている。

日記の記事にも、マトーの準備をする記述が多く見られる。

 

 

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さらに足を進めると、五所塚第一公園がある。公園内にある五所塚は高さ約2m直径約4mの五つの塚がほぼ南北に並んでいる。『新編武蔵風土記稿』にも記述があり、長尾景虎及び従者を埋葬したとの伝説がある。

現在は、この塚は「境」の信仰により築かれたものと考えられている。中・近世には尾根筋や村の境に塚を築き、疫病などの悪鬼の侵入を防ぐ意味を持っていたといわれている。

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   『新編武蔵風土記稿巻之六十一』長尾村の一部分

 

 

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舗装された道路から木々に覆われた土の道をくだると、等覚院境内に出る。

つつじが美しく整えられており、花の季節には多くの人が訪れる。

 

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等覚院も天台宗の寺院である。

中島住職に訪問の旨を伝えておいたので、本堂に入れていただき、般若心経を唱え、お話を伺う。

等覚院の本尊は秘仏不動明王で、ご住職も見たことがないとのこと。

東京日本橋の智泉院から移した鎌倉時代後期の薬師如来坐像も安置されている。

当寺には不動尊の巡行という行事があり、巡行する地域は中原区内、横浜の綱島や町田に及ぶそうである。

昔より規模は縮小されたものの今でも続いており、不動尊の縁日である28日までには寺に帰ってくるという。

等覚院は祈禱寺として幕末から明治にかけて多くの信仰を集め、東京からも人々が押し寄せた時期があったと聞く。

 

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     等覚院の仁王門

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                       等覚院の仁王門の天井画

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    等覚院の手水槽       

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                   等覚院の参道口にあった碑 今は境内にある                      

                  

等覚院の参道近くの藤助家には、不動尊の縁日など等覚院に泊まり込む参拝者が風呂に入りにくることも珍しくなかった。

また等覚院の普請の際は、黒鍬や大工など職人の出入りが事細かに日記に記されている。

等覚院は鈴木藤助氏が毎日のように訪れた場所で、地域の問題を話し合うとか囲碁を楽しむとか、公民館的な役割も担っていたと思われる。等覚院と藤助家は、地域の共同体として密接な関係だった。

 

中島住職にお礼を述べて、鈴木藤助家のあった場所に向かう。

バス通りを渡り旧参道を歩く。神木本町から切通しを抜け長尾橋までの道は後の時代に作られたものである。

万三店(よろずさんだな)と呼ばれた藤助家・向店・古着店のあった時代を想像しながら、長尾の散策を終えた。

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*参考文献『神奈川県の歴史散歩 上』(山川出版社

*文書は国立国会図書館デジタルコレクションを引用

*赤字は「鈴木藤助日記」からの情報

*写真は会員Sさんから提供していただいた

 

 

 

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都筑の中山恒三郎家と鈴木藤助日記

都筑区川和町の中山恒三郎家から、歴史的に貴重な資料が横浜開港資料館へ寄贈されたというニュースが発表された。

http://www.yokohama-history.org/files/6914/9213/7059/d4eada39e34b954d0e7a5bfa72f89a23.pdf

 

この情報を井上先生から伺った。

中山恒三郎家では菊の栽培を行っており、観菊会には東京や横浜から多くの人が訪れたとのこと。

これらの人々の中には、著名な政治家である大隈重信松方正義北白川宮などの皇族もいたそうである。

 

それで思い出したことがある。

鈴木藤助日記の記事で、川和に菊を見に行く記事があったのだ。

検索してみたのでここに記す。

 

明治十一年十一月十三日 

 留五郎・向庄三郎・相良先生・下山根氏同道川和村へ菊見ニ行夕方帰り来る

 

明治十六年十一月八日 

保三郎・下ノ山根公・上作村金吾并ニ耕地ノ桂三郎・学校ノ教師・古キ店台次同道ニて川和村へ花見ニ行、花見連中夕方一同帰り来

 

明治二十一年十一月五日 

原町田ヨり留五郎・清助・重蔵・栄助・平蔵川和村ノ菊へ廻り五時頃帰ル、悦蔵車ニて保三郎原町田夜ニ入テ帰ル

 

明治11年、16年、21年の3回、川和村の菊を見に行ったことがわかる。

中山家の菊が有名で、近隣の庶民も観菊を楽しんでいた一例である。

 

 

 

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      観菊のイメージ画像

 

 

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6月の鈴木藤助日記を読む会

鈴木藤助日記を読む会が6月12日溝ノ口のちどりでありました。

日記は、明治6年9月17日から25日まで読みました。

9月17日

藤助夫人のおよしが大谷へ出かけている。

長尾村内の大谷(井田彦七家)はおよしの実家で、相談事があると

人が呼びに来て、およしは実家に行くのである。

頼り甲斐のある「おば」だったのだろう。

 

9月18日

太七が菅生に医師山口氏を迎えに行っている。

 

9月19日

医師山口氏が来て、おけいの診察をした様子。

おけいは藤助の娘で、東京に嫁いでいるが、

里帰り中に体調を崩したと思われる。

 

9月20日

出店から牡丹餅が届いた。

出店とは、藤助の息子乙五郎が宿河原に営んでいる店である。

 

9月21日

秋元倅の良太郎が体調を悪くしたため、

等覚院にて祈祷の護摩をあげている。

当時は健康も神頼みであった。

 

9月22日

藤助家は金銭貸付の商売も行っているが、

それに関わる人物が集まり議論中である。

決着が付かないため、また集まることにしたとある。

 

9月23日

古着店の庄兵衛とおともが来る。

古着店は藤助家の隣で、長尾村の万三店(よろずさんだな)の一軒である。

おともは藤助の娘で、隣家へ嫁いだことになる。

おともからみると、庄兵衛は義理の父である。

 

9月24日

下勘左衛門が来た。

井田勘左衛門は長尾村に2人いる名主の1人であった。

明治6年になっても村の指導者であり、

田畑書上げのことで取調の必要があることを

藤助に話に来たのである。

 

9月25日

等覚院で無尽が行われた。

等覚院は公民館的な役割も持っていた。

 

 

この日は午後から参加者全員で、長尾辺りの散策に行きました。

「鈴木藤助日記」の書かれた地域を確認するためです。

鈴木藤助家の菩提寺である妙楽寺、毎日のように訪れた等覚院、

鈴木家のあった周辺を訪れました。

等覚院では本堂に入れていただき、ご住職のお話を伺いました。

境内にある石塔の寄進者の中に、藤助の息子で惣領の留五郎の名前を見付けました。

気候も良く楽しい一日でした。

 

◆次回 7月10日(月)10時より

 

◆8月はお休みです

 

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        川崎市宮前区・等覚院山門

 

 

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5月の鈴木藤助日記を読む会

鈴木藤助日記を読む会が5月15日溝ノ口のちどりでありました。

私は会を休んだため、これ以下はSさんが報告してくれた内容を

掲載させていただきます。

日記は、明治6年9月6日から16日まで読みました。

9月6日

念仏講で護摩を焚いたようだが、どういう趣旨なのだろうか。

山田村(幕末~明治)の日記では、頻繁に護摩を焚いている。

農業上の「除災祈願」、農業を脅かす災難を払うために行なう。

年中行事化しているものもあれば(虫送りなど)、

困った時臨時に行なうもの(雨乞いなど)もある。

年中行事化したものはお祭りの要素が強く、

儀式の後のどんちゃん騒ぎのほうが主目的になっていたりもする。

藤助の日記に「除災祈願」的な護摩焚きの記述が少ないのは、

長尾村ではあまり行なわれなかったせいなのか、それとも

農業者リーダーとしては藤助の立場が強くないせいなのか。

 

9月7日

下女が子供を産んだらしい。書き付けとは、その届けを名主へ届けたのか。

 

9月8日

掛け取りは、藤助が質屋と事業用資金貸し付けを手広くやっている関係。

麦つきを3臼している、ということは水車を使ったのではなく、

家に臼があって、それでついているらしい。

しかし、ひとりで3臼もつくとは、よほどタフなのか?それとも何か省力できる方法があったのか?

そもそも何のために麦をつくのか、醤油造りのための脱穀か?

見舞いとは、病気見舞いか、季節の挨拶か。

おそらく重陽節句で、久弥と大谷も同じ目的で訪ねたと思われる。

 

9月9日

おことに縁談が持ち上がっている。

以前、小山田村へ嫁いだが死別して実家へ戻ってきた。この頃は30歳くらい。

赤飯が届いたのは、重陽節句と思われる。

このような贈答品のやりとりには、どのような法則があるのか?

今回は誰が誰に贈る番、などといった持ち回りや交代制があるのか?

 

9月10

曽之吉というのは、あまり聞いたことのない名前。

貸し付けの商売の関係者と思われる。

広尾は、現在の港区広尾なのか?おきくとは?

 

9月11

泊まっていた客たちが帰っていく。重陽節句で訪問してきたのか。

 

9月12

「はま」は横浜の意味。

いつから横浜をハマと呼ぶようになったのか、それほど古くはないはず。

 

9月13

前にも出てきたが、下ケは地名の下綱。

 

9月14

平おたみは、平村のおたみ。

わざわざこのように表現するのだから、

藤助は長尾村住人であって平村の住人ではない。

(※「藤助家は平村にあったのに、長尾村のコミュニティに所属していた」と

主張する参加者がいるので)

祭礼を、本来神社でやるはずが雨天のため等覚院でやることになった。

どういうことなのか不明。

稲刈りをすませていないのに村祭りをするのも、少々わかりにくい。

旧暦の名残でこの時期に催すことになったのか?

 

9月15

かこ善とは、「水夫の善吉」みたいな人名の略称と思われる。

樽集め(空き樽の回収)をしているが、なぜ水夫がするのか。

たまたま暇だったから、藤助に頼まれたのだろうか。

(※かこ善とは「駕籠屋の善吉」の意味です)

おりよが亡くなり、有馬村へ知らせに行っている。

村の住人が残らず来たというのは、おそらく祭礼でなく、おりよの弔いのため。

鉢はらいとは、直会の意味と思われるが、一般的には「鉢洗い」というのでは。

諸勘定は、祭礼の会計と思われる。

 

9月16

おりよの葬式が行なわれる。前日は通夜だったのだろう。

香典として、現金と米を出している。

この時代は貨幣経済が浸透しているのに、米を出すのは何か意味があるのか?

葬式を手伝ってくれた人たちに御礼として配るため、という意見あり。

おけいが川崎大師へ参詣するついでにこちらへ立ち寄った。

川崎大師は、それほど遠くないので、女性に大変人気の参詣先だった。

以上です。

 

 

◆次回  6月12日(月)10時より

◆次々回 7月10日(月)10時より 

 

 

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  柴又の山本亭庭園

 

 

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4月の鈴木藤助日記を読む会

鈴木藤助日記を読む会が4月3日溝ノ口のちどりでありました。
明治6年8月25日より9月5日までの日記を読みました。
前回と同じく藤助家ではよく蕎麦を食べています。
8月26日 向店から蕎麦来る
  28日 蕎麦を打って向店・古着店を呼ぶ
  29日 向店に蕎麦に呼ばれる
9月1日  古着店に棚卸勘定仕舞のため蕎麦の馳走になる
こう書き抜いてみると、蕎麦は向店・古着店・藤助家の万三店(よろずさんだな)で呼んだり呼ばれたりしていることが分かります。
また9月1日の棚卸終了以降、蕎麦の記事がないことにも気づきました。
蕎麦に呼んだり呼ばれたりしていたのは、棚卸の仕事を向店・古着店・藤助家の3軒で行っていたからと推測できます。

今回も蕎麦談義には事欠きません。
関西人から見ると、東京は蕎麦屋がとても多く、蕎麦つゆが濃過ぎるし、蕎麦湯を飲む習慣が奇異に感じるのだそうです。なるほど面白い。
関東の食文化の個性を確認する興味深い事例ですね。

この時期、留五郎は布田に出かけて帰ってきません。
藤助は人を呼びにやったりして気が気ではない様子。
いつの時代も「親の心子知らず」でしょうか。

 

◆次回  5月15日(月)10時より

◆次々回 6月12日(月)10時より

 

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  桜が咲き始めました

 

 

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