「鈴木藤助日記」を読もう

   鈴木藤助日記を読む会に参加しませんか?

「戊辰の横浜」ふたつの企画展

横浜市歴史博物館と横浜開港資料館では、「戊辰の横浜」という企画展が始まります。明治150年記念企画としての展示です。
両館共通のチラシは、黒色を基調とした印象的な配色で、展示に対する期待が高まります。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/index.php/download_file/4534/4223/

 

「戊辰の横浜」名もなき民の慶応四年
  横浜市歴史博物館 7月21日(土)~9月9日(日)
横浜市域では戦闘は起こりませんでしたが、当地域ならではの特徴や生きた人々の息づかいを地元の資料から明らかにするものです。

鈴木藤助日記が展示されます。

横浜市歴史博物館-都筑区センター北

 

「戊辰の横浜」開港都市の明治元年
  横浜開港資料館 7月21日(土)~10月28日
開港都市横浜の激動の1年を、古写真・錦絵・古文書・イラストなど多様な歴史資料から紹介します。

横浜開港資料館

 

 

2018年7月の鈴木藤助日記を読む会

7月9日(月)鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

横浜市歴史博物館と横浜開港資料館では、7月21日より「戊辰の横浜」という企画展を開催します。明治150年にちなみ、両館が連携して展示を企画しました。
横浜市歴史博物館では、鈴木家からお借りした「鈴木藤助日記」が展示されるそうです。

「鈴木藤助日記」は、明治6年12月11日より12月23日までの記事を読みました。
12月13日、等覚院の普請費用を受け取ったり、小麦代金を渡したり、20両から30両ほどのお金をやり取りしています。
12月15日には、大丸から府中にかけて掛取りに出かけています。
年内に掛売の代金を徴収精算しておくため、忙しそうです。

12月18日には、村の有力者であり親戚である人たちに来てもらい、藤助家の身上向きを相談しています。
借財を片付けるため、犬蔵や蔵敷にある持ち山を売り払うこと、大丸にある醤油蔵を売り払うつもりであることを宣言しました。
藤助にとっては大きな決断だったと推察します。

23日、長尾村、土橋村など近隣の質屋仲間が来て、税金免除の願いを出そうとしているようです。質屋をやめてしまうのでしょうか。
江戸時代から明治時代へ、変化の波がひたひたと押し寄せているようです。


◆ 次回  8月は休み
◆ 次々回 9月10日(月)10時より

 

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      浅草のほおずき市

 

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2018年6月の鈴木藤助日記を読む会

6月11日(月)、鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

横浜市歴史博物館では、来月より明治150年にちなんだ展示を行います。「戊辰の横浜 村々の幕末維新(仮題)」戊辰戦争期に横浜市域で何がおこったか、その実態を探る企画展です。
その一資料として、鈴木家からお借りした「鈴木藤助日記」が展示されるとのこと。「鈴木藤助日記」の実物と対面できる貴重な機会になりそうです。

「鈴木藤助日記」は、明治6年11月29日より12月11日までの記事を読みました。
11月30日、松月堂が家を売る話が持ち上がります。松月堂とは寺子屋の名前であり、その寺子屋の先生も松月堂と呼ばれています。
12月1日、松月堂の家その他の売却のことで、藤助自身も出かけています。
江戸時代、原則として田畑や家の売買は禁止されており、百姓株を持つ家が潰れると、その田畑や家は村の所有となりました。明治時代になり土地が個人の所有になると売買が可能となりました。
明治初期、家の売買が出来るようになったとはいえ、寺子屋という教育機関の売却の話ですから、村の人たちの合意があり、新しい学校を作るための資金作りだったのかもしれません。

12月3日、化育学舎の勘定書のことについて村の寄合が開かれました。化育学舎とは、長尾村に新しくできた小学校のことです。当時の小学校は村人がお金を出し合って作られました。その勘定書を皆で確認し合ったのでしょう。
この寄合で酒が振舞われたようで、藤助を含む村の指導者らが酒代を負担しています。
松月堂と呼ばれた寺子屋の先生は、杉浦秀鷲といいますが、鈴木藤助日記の中では松月堂と呼ばれ続け、化育学舎の先生になります。

◆ 次回  7月9日(月)10時より
◆ 次々回 8月は休み

 

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    生田緑地 ばら苑

 

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2018年5月の鈴木藤助日記を読む会

5月14日(月)、鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

江戸時代は、士農工商と身分が分かれ、農民が商業に携わることは原則禁止されていました。しかし実際は、農民の中にも農業の合間に商売をする者がいましたし、農業に基盤を置きながらも手広く商業活動を行う豪農もいました。
「鈴木藤助日記」の中に登場する鈴木久弥家は、その豪農といえる家で、かなり大規模な商業活動をしていました。川崎市市民ミュージアムに残された史料をみると、その経営内容が分かります。鈴木久弥家の商売は、穀物・炭・米・紅花・塩・材木・〆粕・油など多彩です。また、大名屋敷の下掃除や金融(質屋・貸付)も手広く行っており、江戸に出店を出し、複数の大名家と関わっていました。
同じ長尾村で親戚である鈴木藤助家は、商売の詳しい記録が残されていませんが、鈴木久弥家より規模は小さいけれども似たような経営をしていたと推察されます。「鈴木藤助日記」にも久弥家と藤助家とが、商売の情報交換している記述をみることがあります。

 

「鈴木藤助日記」は、明治6年11月20日より11月28日までの記事を読みました。
11月21日、宿河原へ3人の者が「からうす」を引きに行くとあります。「からうす」とは「唐臼」と書き、うすを地面に埋め、足で杵を踏んで穀物をつく仕掛けのものとのこと。ひき臼とは違うことが判明。「唐〇〇」とは日本人にとって外国から伝わったものを意味します。唐臼もいつの頃か外国から伝来し、元々あったひき臼と区別するために名付けられたのかもしれません。
この時期、馬無尽とか馬の話題がよく出てきます。1軒の農家で1頭の馬を飼うことが難しかった時期、皆で少しずつ負担し合い馬を貸し借りしたのが馬無尽ではないかとのこと。馬は、田畑の耕作や荷物の運搬、また馬糞を肥料にするなど、身近な動物だったのでしょう。さらに、関東では身近に用いない牛を、関西では多く用いる印象があります。その文化の違いは何に由来するのか想像が膨らみました。

◆ 次回  6月11日(月)10時より
◆ 次々回 7月9日(月)10時より

 

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     等覚院のつつじ

 

朝日新聞4月14日の記事

 4月14日、朝日新聞の朝刊、第2神奈川面に「神奈川の記憶」シリーズとして、「戊辰戦争(下)抗戦に向かう旧幕府勢力」と題する記事がありました。7日の記事に引き続き、横浜市歴史博物館小林紀子さんがインタビューを受けています。「長尾村(川崎市多摩区)でしょうゆ醸造業を主としていた鈴木藤助の日記をたどる」形で記事は記されています。


 『鈴木藤助日記』の慶応4年閏4月26日に、彰義隊関係者がやってきて金6千両を差出すよう要求されたとあります。その後仁義隊、報恩隊、純忠隊など旧幕府勢力が次々とやってきて大金を要求。この要求に藤助を含む長尾村の有力者は右往左往することになります。無謀な搾取といえるこの要求は、5月15日の上野戦争彰義隊など旧幕府勢力が負けることによって落ち着きました。


 朝日新聞の記事では、慶応4年4月11日江戸城は新政府側に明け渡されたが、旧幕府勢力が簡単に引き下がったわけではなく、5月15日彰義隊上野戦争に至る2ヵ月間(閏4月をはさむ)緊迫状況は続いたと記しています。
 小林紀子さんは、「江戸城を失った旧幕府勢力にとって、江戸周辺の地域は新政府軍に対抗するための資金や物資の補給源でした」と話しています。
 横浜や横須賀は新政府側がいち早く掌握したのですが、藤助の住む長尾村辺りは、旧幕府勢力の活動できる余地があったことを物語っています。

 

朝日新聞4月7日の記事

4月7日、朝日新聞の朝刊、第2神奈川面に「神奈川の記憶」シリーズとして、「戊辰戦争(上)近づく江戸総攻撃」と題する記事が載っていました。横浜市歴史博物館学芸員である小林紀子さんがインタビューを受けておられ、『鈴木藤助日記』が引用されているのでここにお知らせします。
『鈴木藤助日記』の慶応4年5月11日に、藤助は当時の落書を書き留めています。

錦旗勅命丸 人倫の道を失い世を乱す妙薬 値髙百石に付き白米三俵 金三両人足十五人・・・以下略

朝日新聞では、当時の雰囲気を伝える落書とし、架空の薬にかこつけて新政府軍への批判的な視線を伝えるものと記しています。
また小林紀子さんは、「平和のうちに江戸は開城したというイメージがあるかもしれませんが、社会も人々も大きく揺れていました」と話しています。

 

2018年4月の鈴木藤助日記を読む会

4月2日(月)、鈴木藤助日記を読む会が開かれました。

4月より新しい年度が始まりました。それに伴う学芸員の方の人事異動があったことを、井上攻先生より伺いました。
藤助の住んでいた長尾村では、二ケ領用水沿いの低い土地を耕地長尾(コウチナガオ)と呼び、山と谷が入り組んだ丘陵地を谷長尾(ヤトナガオ)と呼びます。この耕地と谷という呼び方は一般的で、耕地は河内と記すことがあります。また谷は谷戸(ヤト)と記すことがあり、谷戸とは「丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形」或いは「水はけの悪い低湿地」のことを指すようです。

「鈴木藤助日記」は、明治6年11月13日より11月19日までの記事を読みました。
藤助の娘のおことが、小山田村の縁者の仲介で久保沢村へ縁付くことになり、婚礼が11月17日にあったようです。藤助夫人であり、おことの母であるおよしは、小山田村へ行き婚礼の準備に忙しい様子。16日には小山田村より使いの者が、長持の油箪(長持にかける覆いの布)とわたぼうしを取りに来ています。18日、おことの婚礼を無事終えて、およしは駕籠で帰って来ています。
11月17日、教師の寄合が溝の口村であるとの記述があります。新しい教育行政の動きです。
藤助家では質屋も家業の一つでした。11月19日にある「質物さしかえ」とは何かと議論になりました。冬物と夏物の入れ替えのことかも知れないとの意見に、皆が納得しました。今では想像力を必要とする事柄ですが、興味深い事例です。

◆ 次回  5月14日(月)10時より
◆ 次々回 6月11日(月)10時より

 

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     等々力不動尊

 

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