「鈴木藤助日記」を読もう

   鈴木藤助日記を読む会に参加しませんか?

「日記からみる戊辰戦争と地域」の報告

相武地域史研究会の第3回シンポジウムが、10月14日に東海大学湘南キャンパスにて開催されました。
テーマは「日記からみる戊辰戦争と地域」―明治維新150年― 
報告者の一人として、小林紀子さん(横浜市歴史博物館)が
「江戸近郊農村の戊辰戦争
  ―武蔵国橘樹郡長尾村「鈴木藤助日記」からー」
という表題で報告をされました。
当日は多くの聴衆が詰めかけ、関心の高さを伺うことができました。

毎月「鈴木藤助日記」を読んで、日記の記事の内容に一喜一憂し、歴史の一コマとして庶民の暮らしを感じてきた私たちです。
しかし、さらに異なった側面、地域的に日記を捉えることができることを知りました。
江戸近郊であるけれども東海道沿いではない鈴木藤助の住む長尾村の地域的特徴に言及された議論を興味深く聞きました。
当日配られた資料の写真を添えます。

 

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日記からみる戊辰戦争と地域

相武地方史研究会第3回シンポジウムの情報です。


「日記からみる戊辰戦争と地域」―明治維新150年― 
2017年10月14日(土)
13:30~17:00(13:00開場)
会場 東海大学湘南校舎 11号館402教室
入場 無料

小林紀子さん(横浜市歴史博物館)が
「江戸近郊農村の戊辰戦争
  ―武蔵国橘樹郡長尾村「鈴木藤助日記」からー」
という表題で報告をされます。

 

鈴木藤助日記を読む会の一員として興味深く、応援したい気持ちです。

 

 

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2017年9月の鈴木藤助日記を読む会

9月4日、溝口のちどりにて鈴木藤助日記を読む会が開かれました。
明治6年10月4日より10月6日までの日記を読みました。 

 

近所では葬式があったり、婚礼があったり、日常が描かれている。
この頃、藤助家の敷地内の炭小屋を改装して、学校の仮校舎を作る作業をしている。大工、畳屋、黒鍬などが出入りしている。
明治6年化育学舎として誕生したこの学校は、明治10年経綸学校と名前を変え、その後いくつかの統合を繰り返して向丘小学校となっていく。

 

井上先生からのお知らせ
相武地域史研究会のシンポジウムが、東海大学湘南キャンパスにて10月14日に開催されます。
テーマは「明治150年記念 日記からみる戊辰戦争と地域」、神奈川の村に残る日記から、戊辰戦争期の様相を探ろうというもので、それを民衆がどう捉えていたかを明らかにするものです。

横浜市歴史博物館小林紀子さんにより『鈴木藤助日記』の記事を扱った報告があります。
だれでも出席可能です。詳しくはのちほど。

 

◆ 次回  10月24日(火)10時より

◆次々回 11月7日(火)10時より

 

 

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等覚院山門天井の天女の絵(秀鷲の署名あり)

 

 

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歴史×妖×芳年 月岡芳年の企画展

横浜市歴史博物館にて「歴史れきし×妖あやかし×芳年よしとし月岡芳年の浮世絵展が、7月29日より始まります。

神奈川県立歴史博物館所蔵「丹波コレクション」の作品とその魅力を紹介する第二弾!

芳年は幕末から明治にかけて活躍した絵師で〝最後の浮世絵師〟とも称されています。芳年はさまざまなジャンルの作品を手がけましたが、本展では、歴史的なできごとや伝説を題材とした作品と、芳年晩年の名作「新形三十六怪撰」全作品を紹介します。

 

企画展展示期間 7月29日(土)~8月27日(日)

企画展観覧料 一般500円 大学・高校生200円                中・小学生100円

 

横浜市歴史博物館 休館日:月曜日

         開館時間:9:00~17:00

 

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7月の鈴木藤助日記を読む会

鈴木藤助日記を読む会が7月10日に開かれました。

明治6年9月26日より10月3日までの日記を読みました。

 

9月26日、学校の先生である松月堂と、隠居と呼ばれる人がケンカをして、伊兵衛が「あつかい」をする。「あつかい」とは訴訟や争い事の仲立ちをするという意味。

昔は地域から信頼される人が、「あつかい」役を頼まれることがあった。まさに頼もしい人ということである。

 

この時期、等覚院では大工が出入りしている。

藤助家の使用人が下川原の鈴木家へ等覚院の瓦代金を借用に行く記述がある。等覚院の屋根普請をしているようだ。

 

10月1日、学区取締の小杉村の安藤彦太郎(のちの久重)と長尾村下川原の鈴木久弥が、学校見廻りに来ている。

2日、藤助家の炭小屋に床をはり、学校にすることになった。

学制により小学校を設立することが急務であったが、ただちに小学校を新設することは不可能であったため、当面は寺子屋・私塾を小学校へ改編することとなった。

長尾村では、江戸時代からの松月堂(杉浦先生)という寺子屋が、化育学舎という小学校に改編されていくことになるが、藤助家の敷地内に小学校の仮校舎ができるのである。

その過程が日記より垣間見えるのは興味深い。

 

 

  8月はお休み

 

  次回は9月4日(月)10時より

 

 

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  等覚院の手水槽を支えている〇〇〇

 

 

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長尾の散策

6月の鈴木藤助日記を読む会の後、鈴木藤助氏が暮らした土地を実際に歩いてみようと計画をたてた。現在の川崎市多摩区と宮前区にまたがる旧長尾村の地域である。妙楽寺→等覚院→旧鈴木藤助家辺りを散策した。

                         

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           『宮前区歴史ガイド』の地図より

 

 

JR登戸駅よりコミュニティーバス「あじさい号」に乗ること10分、妙楽寺へ向かう。

妙楽寺のある長尾台地区は、多摩川を見下ろし東京方面を見渡せる景色のよい所だが、二ケ領用水の流れる地区からは、急な坂を登らなければならない。

コミュニティーバス「あじさい号」はとても有難いバスである。但しスイカ、パスモの類は使えないとのこと。

http://www.city.kawasaki.jp/500/page/0000063124.html

      

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妙楽寺に到着。あじさい寺として有名で、訪れたのはまさにあじさいの花が咲き始めた季節。妙楽寺天台宗の寺院である。

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                       妙楽寺の水琴窟

                        

境内の薬師堂には木造薬師三尊像が安置されている。薬師像胎内の墨書から「永正6年(1509)年」の製作であることが判明した。また脇侍の日光菩薩の胎内には「長尾山威光寺」「天文141545)年」墨書銘が発見された。

このことにより、妙楽寺鎌倉時代に威光寺あるいは長尾寺と呼ばれた寺の旧跡であると考えられている。『吾妻鑑』の治承4(1180)年の条には、源氏の代々の祈禱所として寺名がみえ、また武蔵国長尾寺が頼朝の弟である阿野全成に与えられたと記録されている。

 

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   『吾妻鑑』治承4年(1180)11月19日条          

 

本堂左手の丘に大師穴(だいしあな)と呼ばれる洞窟があり、『江戸名所図会』にも紹介されている。しかし、今は公開されていない。

 

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   『江戸名所図会』橘樹郡・大師穴の記述

      

この妙楽寺は鈴木藤助家の菩提寺である。この寺の地域を日記では「台」という地名で呼ぶ。

 

今回は立ち寄らなかったが、妙楽寺より等覚院へ向かう途中、右手に長尾神社がある。昔は五所権現といわれた。

17日、一年の無病息災と豊作を祈願する的祭(マトー)が行われている。

日記の記事にも、マトーの準備をする記述が多く見られる。

 

 

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さらに足を進めると、五所塚第一公園がある。公園内にある五所塚は高さ約2m直径約4mの五つの塚がほぼ南北に並んでいる。『新編武蔵風土記稿』にも記述があり、長尾景虎及び従者を埋葬したとの伝説がある。

現在は、この塚は「境」の信仰により築かれたものと考えられている。中・近世には尾根筋や村の境に塚を築き、疫病などの悪鬼の侵入を防ぐ意味を持っていたといわれている。

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   『新編武蔵風土記稿巻之六十一』長尾村の一部分

 

 

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舗装された道路から木々に覆われた土の道をくだると、等覚院境内に出る。

つつじが美しく整えられており、花の季節には多くの人が訪れる。

 

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等覚院も天台宗の寺院である。

中島住職に訪問の旨を伝えておいたので、本堂に入れていただき、般若心経を唱え、お話を伺う。

等覚院の本尊は秘仏不動明王で、ご住職も見たことがないとのこと。

東京日本橋の智泉院から移した鎌倉時代後期の薬師如来坐像も安置されている。

当寺には不動尊の巡行という行事があり、巡行する地域は中原区内、横浜の綱島や町田に及ぶそうである。

昔より規模は縮小されたものの今でも続いており、不動尊の縁日である28日までには寺に帰ってくるという。

等覚院は祈禱寺として幕末から明治にかけて多くの信仰を集め、東京からも人々が押し寄せた時期があったと聞く。

 

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     等覚院の仁王門

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                       等覚院の仁王門の天井画

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    等覚院の手水槽       

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                   等覚院の参道口にあった碑 今は境内にある                      

                  

等覚院の参道近くの藤助家には、不動尊の縁日など等覚院に泊まり込む参拝者が風呂に入りにくることも珍しくなかった。

また等覚院の普請の際は、黒鍬や大工など職人の出入りが事細かに日記に記されている。

等覚院は鈴木藤助氏が毎日のように訪れた場所で、地域の問題を話し合うとか囲碁を楽しむとか、公民館的な役割も担っていたと思われる。等覚院と藤助家は、地域の共同体として密接な関係だった。

 

中島住職にお礼を述べて、鈴木藤助家のあった場所に向かう。

バス通りを渡り旧参道を歩く。神木本町から切通しを抜け長尾橋までの道は後の時代に作られたものである。

万三店(よろずさんだな)と呼ばれた藤助家・向店・古着店のあった時代を想像しながら、長尾の散策を終えた。

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*参考文献『神奈川県の歴史散歩 上』(山川出版社

*文書は国立国会図書館デジタルコレクションを引用

*赤字は「鈴木藤助日記」からの情報

*写真は会員Sさんから提供していただいた

 

 

 

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都筑の中山恒三郎家と鈴木藤助日記

都筑区川和町の中山恒三郎家から、歴史的に貴重な資料が横浜開港資料館へ寄贈されたというニュースが発表された。

http://www.yokohama-history.org/files/6914/9213/7059/d4eada39e34b954d0e7a5bfa72f89a23.pdf

 

この情報を井上先生から伺った。

中山恒三郎家では菊の栽培を行っており、観菊会には東京や横浜から多くの人が訪れたとのこと。

これらの人々の中には、著名な政治家である大隈重信松方正義北白川宮などの皇族もいたそうである。

 

それで思い出したことがある。

鈴木藤助日記の記事で、川和に菊を見に行く記事があったのだ。

検索してみたのでここに記す。

 

明治十一年十一月十三日 

 留五郎・向庄三郎・相良先生・下山根氏同道川和村へ菊見ニ行夕方帰り来る

 

明治十六年十一月八日 

保三郎・下ノ山根公・上作村金吾并ニ耕地ノ桂三郎・学校ノ教師・古キ店台次同道ニて川和村へ花見ニ行、花見連中夕方一同帰り来

 

明治二十一年十一月五日 

原町田ヨり留五郎・清助・重蔵・栄助・平蔵川和村ノ菊へ廻り五時頃帰ル、悦蔵車ニて保三郎原町田夜ニ入テ帰ル

 

明治11年、16年、21年の3回、川和村の菊を見に行ったことがわかる。

中山家の菊が有名で、近隣の庶民も観菊を楽しんでいた一例である。

 

 

 

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      観菊のイメージ画像

 

 

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