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長尾の散策

6月の鈴木藤助日記を読む会の後、鈴木藤助氏が暮らした土地を実際に歩いてみようと計画をたてた。現在の川崎市多摩区と宮前区にまたがる旧長尾村の地域である。妙楽寺→等覚院→旧鈴木藤助家辺りを散策した。

                         

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           『宮前区歴史ガイド』の地図より

 

 

JR登戸駅よりコミュニティーバス「あじさい号」に乗ること10分、妙楽寺へ向かう。

妙楽寺のある長尾台地区は、多摩川を見下ろし東京方面を見渡せる景色のよい所だが、二ケ領用水の流れる地区からは、急な坂を登らなければならない。

コミュニティーバス「あじさい号」はとても有難いバスである。但しスイカ、パスモの類は使えないとのこと。

http://www.city.kawasaki.jp/500/page/0000063124.html

      

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妙楽寺に到着。あじさい寺として有名で、訪れたのはまさにあじさいの花が咲き始めた季節。妙楽寺天台宗の寺院である。

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                       妙楽寺の水琴窟

                        

境内の薬師堂には木造薬師三尊像が安置されている。薬師像胎内の墨書から「永正6年(1509)年」の製作であることが判明した。また脇侍の日光菩薩の胎内には「長尾山威光寺」「天文141545)年」墨書銘が発見された。

このことにより、妙楽寺鎌倉時代に威光寺あるいは長尾寺と呼ばれた寺の旧跡であると考えられている。『吾妻鑑』の治承4(1180)年の条には、源氏の代々の祈禱所として寺名がみえ、また武蔵国長尾寺が頼朝の弟である阿野全成に与えられたと記録されている。

 

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   『吾妻鑑』治承4年(1180)11月19日条          

 

本堂左手の丘に大師穴(だいしあな)と呼ばれる洞窟があり、『江戸名所図会』にも紹介されている。しかし、今は公開されていない。

 

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   『江戸名所図会』橘樹郡・大師穴の記述

      

この妙楽寺は鈴木藤助家の菩提寺である。この寺の地域を日記では「台」という地名で呼ぶ。

 

今回は立ち寄らなかったが、妙楽寺より等覚院へ向かう途中、右手に長尾神社がある。昔は五所権現といわれた。

17日、一年の無病息災と豊作を祈願する的祭(マトー)が行われている。

日記の記事にも、マトーの準備をする記述が多く見られる。

 

 

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さらに足を進めると、五所塚第一公園がある。公園内にある五所塚は高さ約2m直径約4mの五つの塚がほぼ南北に並んでいる。『新編武蔵風土記稿』にも記述があり、長尾景虎及び従者を埋葬したとの伝説がある。

現在は、この塚は「境」の信仰により築かれたものと考えられている。中・近世には尾根筋や村の境に塚を築き、疫病などの悪鬼の侵入を防ぐ意味を持っていたといわれている。

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   『新編武蔵風土記稿巻之六十一』長尾村の一部分

 

 

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舗装された道路から木々に覆われた土の道をくだると、等覚院境内に出る。

つつじが美しく整えられており、花の季節には多くの人が訪れる。

 

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等覚院も天台宗の寺院である。

中島住職に訪問の旨を伝えておいたので、本堂に入れていただき、般若心経を唱え、お話を伺う。

等覚院の本尊は秘仏不動明王で、ご住職も見たことがないとのこと。

東京日本橋の智泉院から移した鎌倉時代後期の薬師如来坐像も安置されている。

当寺には不動尊の巡行という行事があり、巡行する地域は中原区内、横浜の綱島や町田に及ぶそうである。

昔より規模は縮小されたものの今でも続いており、不動尊の縁日である28日までには寺に帰ってくるという。

等覚院は祈禱寺として幕末から明治にかけて多くの信仰を集め、東京からも人々が押し寄せた時期があったと聞く。

 

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     等覚院の仁王門

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                       等覚院の仁王門の天井画

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    等覚院の手水槽       

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                   等覚院の参道口にあった碑 今は境内にある                      

                  

等覚院の参道近くの藤助家には、不動尊の縁日など等覚院に泊まり込む参拝者が風呂に入りにくることも珍しくなかった。

また等覚院の普請の際は、黒鍬や大工など職人の出入りが事細かに日記に記されている。

等覚院は鈴木藤助氏が毎日のように訪れた場所で、地域の問題を話し合うとか囲碁を楽しむとか、公民館的な役割も担っていたと思われる。等覚院と藤助家は、地域の共同体として密接な関係だった。

 

中島住職にお礼を述べて、鈴木藤助家のあった場所に向かう。

バス通りを渡り旧参道を歩く。神木本町から切通しを抜け長尾橋までの道は後の時代に作られたものである。

万三店(よろずさんだな)と呼ばれた藤助家・向店・古着店のあった時代を想像しながら、長尾の散策を終えた。

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*参考文献『神奈川県の歴史散歩 上』(山川出版社

*文書は国立国会図書館デジタルコレクションを引用

*赤字は「鈴木藤助日記」からの情報

*写真は会員Sさんから提供していただいた

 

 

 

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